Withlete代表のブログ

~福岡で陸上を愛する全てのランナーを繋げたい~

「心・技・体」の「心」について

こんばんは!

今日は、僕が中学3年生の時に、サッカー部兼陸上部の先生が、部員全員に配った『私のスポーツ観「心」とは』という記事を紹介します。

 

これは、私が読んで心が震えた記事です。

中学生時代のもので未だに手元に残っているのは、練習日誌とこの記事を印刷したプリントだけです。

どなたの言葉なのかは、明らかではありませんが、ヘナチョコだった中学2年生までの私の闘志に火をつけた文章です。

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私のスポーツ観「心」とは

 「心・技・体」という言葉をよく耳にするが、その「心」とはどういうものであろうか。

私は、この3つのうちで「心」が重要なものだと思う。いかなるスポーツでも、最初のうちはただ、やっておきさえすれば、ほとんどのものは、ある程度までの上達はする。

 

 どんな素質の持ち主であっても「心」がなければ、それから上へあがることは出来ない。しかし、素質のない者でも「心」があれば、やがては今まで出来なかった技、今まで勝てなかった人にも勝てるはずである。

 

 つまり、「心」とは「やる気」である。何事にも負けぬ闘志である。この「やる気」がなければ、何をやっても身についてこない。「心」があっての「技」と「体」なのである。せっかく人並み以上の素質を持っていても、周りの人々から期待され、ちやほやされることにより、それにうぬぼれて天狗になってしまうとその人は終わりだ。

 

 どんな天才であっても、気を抜いてしまうと負けてしまう。たとえ相手に勝てても本当の「勝利」とは、まず自分を制覇し、どんな困難にも打ち勝ち、どんな場合にも自分の持てる実力以上のものを発揮し、相手を倒さなければならぬ。

 

 口では「自分は精一杯やった」などという者がいるが、その時点で自分の「心」に負けているのである。本当に精一杯やったかどうかは自分で決めるものではない。本当に精一杯やったのなら、周りの人が同感するだろうし、自然に結果も良くなっていくはずである。

 

 たとえ試合の時だけ精一杯やっても、それまでの練習に「心」を入れてやってきたかという点を自分でもよく反省しなければならない。「心」を入れて練習をやっておけば、いつまでも試合をやっているのと同じように感じるはず

 

 そうなってくれば、試合でのプレッシャーなど何ともないはずである。試合でもプレッシャーを味方に出来ぬようでは、それまでの練習は水の泡になってしまう。やるからには、そのようなことがないように、中途半端なことではいけないのである。

 

 「心」、これを鍛錬・制覇する者は、必ず「技」・「体」を制覇できるはずだ。

これからは「心」で勝負していくべきだと私は思う。

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どうでしょうか。

 

 

僕は、努力には「向き」「長さ」が大切だと考えています。

センター数学のベクトル分野で20点中5点だった僕が、努力の「ベクトル」について盛大に講義を始めるのはおこがましいのですが(笑)

 

「向き」が大切だといったのは、何年も同じことを頑張り続けているのに、全く目標に近づかないことがあるからです。

それは、頑張っていることの内容自体が的外れなのかもしれません。

極端な例でいえば、100mで10秒台を出したいのに、毎日20km走を行うようなもの。

 

「長さ」が大切だといったのは、その目標を達成するためには、どれだけ最短ルートを通っても3年かかるのに、1年で辞めてしまうと、せっかく「向き」が正しくても目標には到達しないからです。

 

努力すれば、必ず自分の目標に辿りつく、かは分かりません。
その努力が出来る期間は、中高生の部活動であれば3年、学生スポーツであれば4年です。

自分が掲げた目標が、どんなに最短距離でいってもその期間で達成できるものであるかは誰にも分からないので、「必ず」とは言えないのです。

しかし、努力の「向き」が正しければ、その目標に近づいていることが実感できたり、日々進歩を感じることが出来るはずです。

 

そこで初めて「やる気」が生まれ、より自分を厳しい道へと向かわせることが出来るのでしょう。

湧き上がってくる「やる気」を待っていてはダメで、自分から湧き上がらせるものなのだと、この文章を読んで考えました。

 

少し長くなりました。

僕が中学時代にこの文章を読んで受けた刺激をみなさんにも共有したく、紹介しました。外に出られない時間だからこそ、多くの人の感性や思考に触れることが出来るはずです。常に外部にアンテナを張り、刺激をもらいながら頑張っていきましょう。

それでは今日はここまで。

ばいばーい